先日、4月から中学に通い始めた次男の父兄会に女房が出かけて行った。担任の先生から、
「今の所、5月病になるような生徒は見受けられないけれども、小学校とは全く異なる環境なので、家庭でも気を付けてあげて下さい。」 などという話があったようだ。
僕も5月病という程ではないにしろ、今から20年以上も昔、大学を卒業してサラリーマン1年生になった頃は、戸惑う事だらけで、5月の終盤のこの時期は結構ナーバスになっていた思い出がある。
毎朝6時30分に起床して、7時過ぎには会社の寮を出発する。満員電車とバスを乗り継いで、最初に配属された営業所に8時過ぎに到着する。それから、夜の9時~10時まで、息つく暇もないほどの仕事に追いまくられて、夜中にヘロヘロになって寮に帰ってくる。そんな毎日が続き、一日が終わると寮の部屋で、
「俺は、これからずっとこんな生活を続けてゆくのだろうか・・・・?冗談じゃないぞ・・・。」 なんて、妙に真剣に考え込んでいたものだ。
今考えると、仕事に慣れていないせいで、1日の中で上手に息抜きをしたり、気分転換をする事ができなかったのだが、その時はとにかく必死で、学生時代にあれほど聴いていた音楽も、会社に入社してから新しい部署へ転勤になる1年間はほとんど聴いた記憶が無い。それほど生活にゆとりを持つ事が出来ずに、精神的に追い詰められていた事は間違いないのだ。
この当時、日曜日には学生時代に住んでいた
下北沢へよく行った。休日は遅くまで寝ているので、昼近くなって下北沢駅へ着く。学生の頃よく通った定食屋で朝昼兼用の食事をして、そのまま駅の近くのサウナへ行き、ビールを飲んで2時間ほど昼寝をする。その後、必ず立ち寄ったのが
『マサコ』という
ジャズ喫茶だった。
『マサコ』には学生の頃から時々行っては、アイス・コーヒーとマンガでジャズに耳を傾け暇潰しをしていたが、社会人になると学生時代とは全く異なり、ここでもビールを飲んで、ソファー席でジャズを聴きながら居眠りをするのである。普段音楽を聴いていない上に、
JBLの良い音が体中にビンビン響いて、とてつもなく気持ちが良かった思い出がある。
さて、ジャズ喫茶
『マサコ』での思い出話はまた改めて記事にするとして、今日僕が書きたいのは、
『ジャズ喫茶的なアルバム』の話だ。もう少し詳しく言うと、
『アルバムを聴き始めると、何故か当時のジャズ喫茶の光景が浮かんできて、ジャズ喫茶でくつろいでいるような気分に浸れる・・・・。』 そんなアルバムが、僕の中には何枚か存在すると言う事なのだ。
5月病の話からジャズ喫茶の話まで、昔の思い出が頭の中を巡り巡ったので、毎度の事とは言いながら、アホみたいに長い前置きになってしまったが、勘弁願いたい。これからやっと本題に入るのだ。

まず、僕が感じるジャズ喫茶的なアルバムで最初に挙げたいのは、
ミルト・ジャクソンの
「ミルト・ジャクソン・クァルテット」だ。今から15年ほど前に、
中野の中古CDショップで購入した。
ミルト・ジャクソンという人は、ご存知の通り
MJQの
ヴァイブラフォン奏者だ。あちこちのアルバムで素晴らしい演奏を聴く事が出来るので、どのアルバムが一番だとはなかなか言いにくいミュージシャンだと思うのだが、僕個人としては、
「ミルト・ジャクソン・クァルテット」が最も良いと感じている。とは言っても全て聴き尽した訳ではないので、
「そんな事はない!他にもあるぞ!」 とか、
「いい加減な事を言うな!ロクに聴いても無いくせに!」 などとお叱りの言葉が飛んで来る事は分かっている。でも、わがままオヤジとしては、好きなものはしょうがないのである。
1曲目の
「ワンダー・ホワイ」が始まった瞬間に、黒いブルージーな雰囲気が広がり、何とも言えないモダンジャズの世界が展開する。鼻歌ででも歌えそうなフレーズが続き、それでいて実にカッコ良く、気持ちが良い。
僕が考えるに、こういう音を聴きながら日常とは異なる雰囲気に身を置いてのんびりする事が、ジャズ喫茶の1つの醍醐味だと思うのだ。
「くつろげなくては、ジャズ喫茶じゃない!」 そんな風に思っている僕は、
「ミルト・ジャクソン・クァルテット」は実にジャズ喫茶的なアルバムだと感じているのだ。
さて話は変わるが、半年ほど前に僕は高知市内のあるジャズ喫茶で暫く時間を潰した事があった。久しぶりの事だったので、コーヒーを頼んだ後で、周りをキョロキョロと見回してしまったが、その時に、
「おっ、ジャズ喫茶なるもの、何時でも何処でもこれは同じなんだよな~。」 と思い出した事があった。それは、流しているアルバムのジャケットを客に分かるように見せて置いておく事だ。これで、当時の僕みたいなほとんどジャズを知らない若者でも、流れているアルバムのジャケットが確認出来て、
「なるほどね~。この曲があのアルバムか~。」 などと、意味の分からない納得をしていた事を思い出したのだ。
で、当時は音のイメージよりも、ジャケットのイメージの方が頭にこびりついて離れなくなるものが色々とあった気がする。特にミュージシャンの顔がモロに写っているジャケットは、そのミュージシャンの息吹がそのまま感じられそうで、妙に圧倒された事を覚えている。

中でも、
グラント・グリーンの
「フィーリン・ザ・スピリット」と
ケニー・ドーハムの
「静かなるケニー」の2枚のジャケットが僕は気に入っている。
グラント・グリーンの
「フィーリン・ザ・スピリット」はだいぶ前の記事で紹介して
(←記事はこちらです。)、その時にも書いたけれども、この表情が好きでたまらない。こういうのが、ドンと置かれていると、
「おお・・・・しっぶいのぉ~。」 と思ってしまう。増してや内容も超ブルージーで僕好み。ドス黒いフレーズの連続にビリビリ痺れるのだ。
一方、
ケニー・ドーハムの
「静かなるケニー」のジャケットは、なんとなく寂しげで、訴えかけるような目をした表情が良い。あまり目立つ事なく控え目にプープー鳴らすトランペットと、このジャケットの表情から、
ケニー・ドーハムの人柄がなんとなく分かるような気がしてくるのだ。
この2枚以外にも、特に
ブルーノート辺りには、数々の
『ジャズの世界を垣間見るような、濃くて深いジャケット』があるけれども、僕はいつもそこから当時の薄暗いジャズ喫茶を連想してしまうのだ。
さて、ここまで、
「イイ気持ちで、くつろげるアルバムこそ、ジャズ喫茶を連想する。」 だの、
「顔がアップの濃いジャケットはジャズ喫茶のイメージだ。」 などと超個人的な感覚の話をしてきたが、最後は本来のジャズの楽しみ方、湧き出るアドリブ演奏からジャズ喫茶を想像させるアルバムを挙げておきたいと思う。

そうは言っても、これこそが最も個人的な好みと感覚の話になってしまい、異論は多々あるであろうが、オヤジのわがままを聞いてほしい。
リー・コニッツの
「リアル・リー・コニッツ」だ。
リー・コニッツと言う人は、
ミルト・ジャクソンや
グラント・グリーン等とは正反対の非常にクールな演奏をするサックス奏者だが、クールな演奏の中に、
インプロビゼイションに全神経を傾けた熱い思いをビンビンと感じる事が出来るのだ。
とは言っても、
リー・コニッツには
「モーション」という名盤があるので、
「こちらの方が断然ジャズ喫茶っぽいのではないか?」 という意見が聞こえてきそうだ。
確かに
「モーション」からは白熱したアドリブ演奏を聴く事が出来るが、凄すぎて逆に疲れてしまう気がするのだ。僕の中では
「リアル・リー・コニッツ」の方が、なんとなく日常的なジャズ喫茶のイメージがあるのだ。
ふらっとジャズ喫茶に入った時に、こういうアルバムが淡々と流れていて、コニッツの吹くアドリブが自然と頭の中に広がって行く。興奮もせず、そうかと言って退屈する訳でもなく、
「ああ・・・。ジャズってイイよな~。」 と感じる事が出来るのだ。
「リアル・リー・コニッツ」は、ジャズ喫茶という独特の世界へ入り込む為の導入剤のようなアルバムだと僕は昔から感じているのだ。
さて、もうあと4~5枚は別の超個人的な感覚と理由からジャズ喫茶を思わせるアルバムがあるのだが、ますます意味の分からない文章が続く事になりそうなので、ここまでにしておく。
僕が学生の頃のジャズ喫茶には独特の雰囲気があった。あまり掃除が行き届いているとは言い難い店内に大音響で流れるフォービートのリズムやコーヒーの香り、薄暗い中でゆれる煙草の煙、1人気難しそうな顔をして読書する男、目を瞑ってひたすら音に耳を傾ける奴、等々思い出し始めるとキリが無い。そんな浮世離れしたジャズ喫茶という異空間にポツンと座ってぼんやりしている僕の姿が、アルバムを挙げてゆく毎に頭に浮かんで来るのだ。
実際ここに挙げたアルバムは、僕がジャズ喫茶に行かなくなって数年後に聴いたものばかりなので、本当にジャズ喫茶で耳にしたアルバムとは全く異なる事は分かっていても、これらのアルバムで当時を思い出す事が出来るのが実に興味深いと思うのだ。
当時の感覚はやっぱり音楽の中にあると改めて思ってしまう。
[Music Milt Jackson] [Music Grant Green] [Music Kenny Dorham] [Music Lee Konitz]